本堂

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新本堂は一見してそれと判る、鉄筋コンクリート造りの現代建築。1 階は会議用ホール、和室、図書館、2 階は椅子式の本堂である。宗教殿堂であるからには、宗教行事を中心とするのは無論であるが、ただそれだけにとどめず、講演会や各種文化活動等にも広く開放し、すべての人々の心の憩いの場となるよう鋭意工夫がなされている。

御本尊 大曼荼羅

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蓮昌寺所蔵の大曼荼羅は、日蓮聖人の高弟日像上人が南無妙法蓮華経と大書なされたもので、高さ七メートル・幅四メートル・美濃紙七五枚継という実に大きな御本尊である。蓮昌寺の本堂が大曼荼羅奉安のため吹き抜けの塔の形式がとられたのはそのためである。一般には「大まんだらさま」と呼ばれ、その霊験は全国津々浦々に知れわたり、昔から今日に至るまで、春秋二回の開帳には、老若男女で人の波となる。

本堂一階和室

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本堂一階小会議室

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本堂一階大会議室

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本堂二階大本殿

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日蓮大聖人木彫水鏡御霊像

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この像は開山日像聖人六百五十遠忌を記念して造立された。
大聖人御在世中に藤原親安の描いた「水鏡の御影」(波木井の御影とも)を、絶世の佛画家妹尾天然画伯が、身延全山の水を用いて生命懸けで模写した画像から起した。日本一の佛師松久朋琳の弟子谷口宣剛氏が、尾州ヒノ木を素材に三年がかりで刻みあげた、将来国宝ともなろう御霊像。

一丸堂

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一丸さまは正式には最尊一丸大明王と申し上げる。今から約七〇〇年程前のこと富山城主(後に金川城主)松田元喬が、大覚大僧正に帰依、岡山城中榎の馬場へ蓮昌寺を創建した際、この寺の守護神として一宇を建立し、祭ったのが水穂大善神、即ち稲荷大明神であった。

その後、森下町に移転したが、その際水宝大明王と改称された。ついで、小早川秀秋の代になり、現在の田町に移転させられた。そして明治に至り最尊一丸大明王。最尊とは読んで字の如く、最も尊い神様ということであり、一丸とは日の丸の謂いである。最尊一丸大明王には、月丸明王、星丸明王と称する眷属がある。眷属とはお使い(おつかわしめ)である。つまり蓮昌寺の守護神は、一丸、月丸、星丸という、天の三光を名とした稲荷神である。

大仏殿釈迦堂

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太平洋戦争で全山悉く焼失した当山は、昭和二十四年(一九四九)、児島の常山にあった常山寺の本堂を譲り受けて、これを移築、仮の本堂に当てた。しかし、寺宝の巨大な大曼荼羅を開帳するためには、高さ十メートルの空間が必要であった。そこで本堂内陣として、昭和二十七年(一九五二)の秋に増築されたのが、内部が吹抜けの、この二重の塔であり、平成三年(一九九一)、開山日像聖人の六百五十遠忌に、昭和四十三年(一九六八)の新本堂建立以来、剣道場として使用されていた旧本堂の解体がなされた時、この内陣部分だけが残され、塔正面、扉の付く部分が欠如していたのを、二メートルばかり増築する形で、塔に相応しい形に補修され、現在の形になった。

日泉は、この二重の塔を「開山堂」と名づけ、宮殿には、開山日像聖人自らが、その母のために刻まれたと伝えられる聖人若き日のお姿(複製)と御真骨、また、当山が、その西国最終霊場となった、行学院日朝聖人の御真骨を祀った。

 

そして平成十二年(二〇〇〇)になると、笠井山大仏(ビルマ仏像)の当山への遷座話が急拠浮上するに及び、この堂は、「開山堂」から「大仏殿釈迦堂」と称されることになる。
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かくして計らずも、蓮昌寺に、「大仏(仏宝)」、「おおまんだら(法宝)」、「日蓮大聖人水鏡御霊像(僧宝)」という「三大三宝」が在すこととなった。

水子観音

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水子観音像由来

母胎の内にあって、母の愛を信じながら、安心して育っていた胎児が、突如として母の肉体から裂かれ、その生命を奪われる時の驚きと悲しみは何に例えられよう。
中絶、流産を問わず、母の名を呼べずして去って行った、可愛そうな小さな生命が、幾十万、幾百万とあることか。たとえそれが、優勢保護の美名のもとに行われた行為であったにせよ、一家一族の暗雲となっておおいかぶさるに違いない。
闇から闇へ葬られた小さな生命のあったことを重荷として生きていく女性たちの如何に多いことか。
生命敬視の風潮の中で、目に見えぬ、ものいわぬ幼い霊に心を寄せる、
そのことは、同時に、外界の平和の礎となるべき美しい心であるに違いない。
この像は、日泉の発起により、その幼な友達中川昌保(京都在住)を発起人代表として、呼びかけが行われ、500人を超える善意の浄財によって、昭和56年春造立された

浄行菩薩

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宇宙とか社会とか生命とか人間とかそういったものの本当のあり方が分り人間のあるべき姿を自覚した理想的人間像、法華経の中に描かれる久遠のみほとけのみ使い4人のリーダーの一人。
水の性格をもってその徳とされるところから、古来心身の汚れを除く菩薩といわれ関東方面を中心に水洗いの浄行さまと呼ばれて、水商売の神様として尊崇を受ける。
この像は、古くから、蓮昌寺の支院の中で祀られていた、まことに美しい相好の菩薩像である。

丹下地蔵

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蓮昌寺児童館の英語教師に、丹下長勲と云う青年がいた。愛媛県出身のこの青年は、岡山大学から米国の大学に留学した経験を持つ英才で、高校生たちの憧れの的であった。
ところが、昭和51年(1971)事故死、これを悲しむ学友、教師、知己らの手によって、本人ゆかりのこの地に、(法華経によって、開会された)地蔵尊が建てられることになった。
これは、いわば、岡山における彼の墓の意味もあるのだが、建立の決定と同時に、彼の母親に霊感が出て来たという。
建立場所を知らない母親に、その場所に立つ息子の姿が見えたのである。
それ以来、友人たちの集まりの席で、彼の父親は、死んだ息子の近況報告をもするようになる。

日朝聖人

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日蓮宗総本山身延山久遠寺第11法王で、行学院と号する(1422~1500)
今日の身延山発展の基を造った敏腕家。しかし、同時に、彼は優れた学僧でもあって、晩年には、著作活動に全精力を傾注し、一時眼病を患って筆を置くこともあったが、信仰の力で、やがて視力を回復した。
こうしたところから「にっちょうさま」と呼ばれて、民衆に崇められ、眼病平癒の神様とうたわれる。
当山は聖人西国布教最終の場で、開山堂には、聖人の分骨が奉安されている。また、一丸堂の前には御尊像も祀られてあり、その傍らには碑が建立されている。
なお、かって当山塔頭八院の一、実如院に祀られ、第2次世界大戦の炎をくぐりぬけた御尊像は、石彫仏師馬越正八の手になる御尊像の体内に納められた。

庭園

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嵯峨・遠州・夢窓の三大流を調和させた回遊式の見事な庭園で、樹齢四〇〇年の大蘇鉄・五〇〇貫の笠をいただく自然石灯籠・芭蕉の句碑などがあり、本堂階下の茶室から眺める庭園は実に優雅で美しい。

この庭園は昭和四十三年(一九六八)春、新本堂の建立にあわせて造られたもので、それは庭師宗松園の宗博らの手になるもの、戦前あった瓢箪池の一部も組み込まれており、池の縁のつなぎなどに使われた小形の新しいものは別として、主だった石のほとんどは戦前から存したものである。ただ、以前に立っていたものが寝させられたり、寝ていたものが立てられたので、面白い変化がつけられている。しかし、考えてみれば、それらは皆、大戦の戦火をくぐりぬけているので、すべては焼石であるともいえる。もっとも逆にいえば、庭石だったからこそ、大伽藍ことごとく焼失したなかで、生き抜くことができたといえよう。

破壊された供養塔塔身

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一九四五年(昭和二〇年)六月二十九日の岡山空襲で破損した供養塔塔身の一部で、折れたまま土中に埋められていたのが、南隣の工事の際、その現場から見つかったもの。当山では、空襲で国宝の本堂や三重塔などを焼失していることもあって、戦前までの栄華と戦争の悲惨さを伝える貴重な資料として、境内に保存していくこととした。

法要会館

蓮昌寺法要会館は、どなたにでも気軽にお使いいただける法要の綜合的な施設として建てられたもので、大衆的で中規模な葬儀場と法事・法要等のための会場、そしてご先祖方が安穏に休息できる場所とから成り立っている。また、これに加えて佛教美術館並資料館がある。更には児童館施設としての剣道場などもある。

寂光殿

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正面ステージの壁面が左右に弧を描いて拡がっている。ステージはかなり広い。マイクジャックがのぞいている。その手前が二十四畳。右手に僧職者のための控えの間(日輪)、給湯室、そして、もう一つの控えの間(月光)が並んでいる。後部は石畳のロビー。椅子の五十ぐらいは並べられよう。畳の間との間は移動式の屏風で仕切ることができる。宗派を問わず、すべての人々に開放されるこの施設は、大衆葬儀場として使用されることを主目的として作られた。照明、音響にもかなりの配慮がなされている。

法華堂

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妙法の間(三十畳)と蓮華の間(二十畳)の二つの部分から成っている。妙法の間には広い祭壇、蓮華の間には床があり、炉が切ってある。法要・法事専用の間として考えられたが、茶会の席としても充分に耐えられよう。

久遠堂

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御先祖たちの久遠の安息場として作られた、いわゆる納骨納碑堂で、当山の永代供養を受ける者に限られる

事務局

ご用の際はお立ち寄りください…

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蓮昌寺
〒700-0825 岡山市田町1丁目4‐12
TEL 086-224-4688
FAX 086-221-7148
Email info@renjyoji.com

仏教図書館

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日秀、日泉と、その法嗣一成の蔵書、法人の年間予算で、半世紀に亘って購入した書籍、それに日泉の学兄にあたる田村庄司の死後、遺族から譲り受けた彼の蔵書、日泉によって「田村文庫」と名づけられた書籍二千冊を含む、約一万冊の書籍を有している。内容は、宗教、哲学、思想をはじめ、歴史、文学、美術等、多岐に亘る。

仏教美術館

この美術館並資料館は、平成三年(一九九一)開山聖人六五〇遠忌を記念して建立された綜合法要会館の一部に併設されたもので、先師先哲のしたためられた御本尊をはじめ、日棹・日秀の代に存した若干の書画類に、日泉が檀信徒・縁者知己等に依頼して、収集した相当量の蓮昌寺関係遺物、宗門内外墨跡、仏画類等から成っている。また、資料館には歴史資料、民族資料等の若干がおさめられている。

蓮昌寺児童館

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社会福祉法に基づく児童厚生施設として、当児童館が旧厚生省より認可されたのは、昭和四十七年(一九七二)十二月一日であった。それまでにもあった絵画・音楽・英語・剣道等々の活動実績が認められたもので、今日では、コーラス十団体のほか、各種ダンス教室、日舞・能・謡曲、茶道、空手、居合等も。